第48号 KCWA | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
48号 目次 郷土色豊かなNHKラジオのベリカードの想い出 JA3LGF 通信士として苦い初仕事 JK3KSC 近況報告 JL3ROS (やっと)桜咲 JG3DLX 日本よ卑屈になるな! JE3LKZ ホンダ車の改造 JA3DLM 初級QSO教室報告 事務局 初級QSO教室でのアンケート 受講生有志 上級国試対策講習会報告 事務局 上級国試対策講習会でのアンケート 受講生有志 第26回 KCWA CW コンテスト 結果 KCWAコンテスト委員 KCWA会員名簿 事務局(部外秘にて掲載無し) 年間KCWAロールコール状況 事務局 編集後記 事務局 郷土色豊かなNHK ラジオのベリカードの想い出 JA3LGF 今年1月末のある日、書店でBCLラジオ関係の雑誌が目に とまり、なにげなく、付録をみると、昭和30年代のNHK 各局のベリカードを原寸大でアルバム風に纏めてありま した。この付録を手元に置いておきたく、その雑誌を購 入しました。 自分が中学生の時代に集めたNHK各地の ベリカードと同じものも何枚か収められており、大変懐 かしく思いました。特に北海道各局のカードは郷土色豊 かなデザインであり、もっとがんばって、受信にトライ しておけば良かったと思いました。でも、当時は自作の 5球スーパーや、メーカー製のトランジスターラジオで 局を追いかけていましたので、今と違い、周波数のデジ タル表示もなく、テンキーで周波数を入力して待ち受け 受信することは想像もできない時代でした。NHK地方局 の場合は、ひたすら、放送が終了する深夜か、開始の早 朝にIDを聞き、局名を確認するしかなく、受信を確認で きる局も限られていました。今でも放送開始前に流れた オルゴールのメロディーを良く覚えています。そんな時 代だっただけにカードが届くと嬉しく友達に見せたり、 見せてもらったりしたものです。 時が経ち、NHKはそ っけない統一的デザインのカードになったり、TV番組の 宣伝絵葉書みたいなものになったり、一切発行しないよ うになってしまったのは残念です。 当時のNHKラジオ放送局のベリカードの多くは、一目み ただけでその地方が分かるぐらいの地方色を出してくれ ていました。 自然、地方の象徴、祭り、町並み等が程よいタッチで描 かれていました。又、局舎、アンテナを描いたカードも ありました。 小電力局の頂冠付垂直アンテナを描いた カードは、それだけで絵になっていました。アンテナと いえば、今、全国のNHKラジオ放送局(中継局を含む) の送信アンテナで、局舎屋上の鉄塔に展開したワイアー 系アンテナといえば、もはや京都放送局のみでしょうか 詳しくは知りませんが、そんな気がします。京都のこの アンテナの風景を是非残して欲しいものです。 NHK大 阪が羽曳野から近畿一円に大電力で放送している中、京 都市内でワイアー系アンテナが現役で活躍しているのは なんとも嬉しい限りです。上述のベリカードアルバムに 収められたNHK京都放送局のカードによれば昭和34年 当時、第一放送(JOOK) が1,320 KC、第二放送(JOOB)が 1,490KC 出力はいずれも1KWと記載されています。 カ ードに水彩画風に描かれているのは、宇治と思われる茶 畑と茅葺き農家で、テレビアンテナが何気なく描かれて いるのも時代を感じさせます。 京都第二放送があった ことは、知りませんでした。京都の中波民間放送といえ ば、KBS京都がありますね、 私が持っているカードは、Radio Kyotoと書かれ、舞鶴 港の風景をデザインしたと思われるカードです。KBSの アンテナは以前、国道1号線から見えましたが、頂冠付 円柱アンテだったと記憶しています。京都を離れている うちに、いつのまにか、タワーとダウンリードのアンテ ナになっていました。どちらが技術的にどうかというよ うな専門的な事は全く分かりませんが、丸い頂冠付の方 がアンテナらしいと素人ながら思っています。ベリカー ドから、アンテナの話になってしまいましたが、地方色 豊かなデザイン、ハッとする斬新なデザイン、漫画風、 送信アンテナデータ付のアンテナの風景等、各局が工夫 を凝らしたカードを中波放送局が作成、発行する時代は もう遠い昔に終わってしまったということでしょうね。 de JA3LGF 通信士として苦い初仕事 JK3KSC 昭和34年秋、5,000人以上の死者を出した伊勢湾台風で 名古屋市内の下宿は半壊してしまった。丁度二級通信士 の受験を終えた矢先の出来事であった。台風の影響なの か、免許証を手にしたのが予想通り遅れ、11月にかか っていたように記憶している。 食べることもままならぬ名古屋を後にして向かった先 は宮城県宮城郡七ヶ浜町(塩釜港)である。学校の紹介 でもあったので、事前調査も予備知識もなしに取敢えず 身のおき場所として選んだのが漁船の船舶通信士であっ た。11月末だったと思う。名古屋を午後出発して東京 経由で仙台に着いたのが翌日の早朝、目的地の塩釜港へ の乗換えを駅員に聞くと正真正銘のズーズー弁、全く理 解できず、「随分遠くへ来たものだ」これが実感であっ た。何しろ東は名古屋、西は京都以西へ行ったことがな い田舎者なのである。塩釜港の本船に着いたのは午後だ ったと記憶している。塩釜港は全国でも有数の漁港で活 気を呈していた。 船主と乗船予定の第十長栄丸で初対面となった。本船 は49.34トンの鉄船(50トン未満は全てにおいて規制が 緩い)、全長約25m、幅5〜7m位だった様に思います。 挨拶もそこそこにして無線室へ、外は人や船の往来も多 く賑わっている。でも船内は荷揚げも終わったので誰も いなく静寂そのものである。モヤ綱の軋む音がキュー・ キューと妙に耳に残る、雑踏の中の静寂空間である。船 を見るのも初めてなら乗るのも初体験、加えてロープの 軋む音を生涯で始めて耳にした者にとっては異次元の世 界に来たような記憶が半世紀を過ぎた今も耳に残ってい る。 「明後日に北洋にタラ漁で出港とのこと」「無線機の調 子が悪いのでそれまでに直しておいてくれ」と船主から 依頼される。サーテ困ったことになった。早くも大ピン チ到来。二通の免許は取得したものの未知の実社会への 第一歩であり実務の経験もゼロである。機器の扱い方、 理論はそれなりに理解していても故障修理はとても無理 船主は無線屋さんだから通信も修理も何でも出来ると考 えているらしい。今、裏返しで考えると資格所持者の重 みであり責任である。そこには年齢や経験は大した意味 を持たないことになる。 「私は通信士で来たので修理はメーカーを呼んでほしい 」勇気を出してこの一言を言うのが精一杯だったことを 覚えている。 深夜までかかって50Wの送信機の調整が完了、後で思 ったことはメーカーが来てくれたからこそ機器の扱いが 出来たことであり、もし故障していなかったら・・と思 うと冷や汗ものである。通信については初めての実務の 不安はあったものの、学校で訓練を重ねてきたので何と かなると横着に考えていた記憶があったように思います 知らない者の強みとでも言うのでしょうか。翌日、予定 通り名所松島湾を後に千島列島の入り口の国後島沖を目 指して北上する。これで無線に関しては、何があっても 聞く人もなければ頼る人もない。まな板の鯉である。 本船の乗組員は漁労長(船長兼務)、ボースン、機関 長、通信長各1名、あとは乗組員(漁師)カシキ(漁師 見習いで賄いと雑用担当)全員16名位だったように記憶 しています。食事を摂るにも食堂はなく、椅子もテーブ ルもない。甲板のストーブを中心に自分の座る場所をそ れぞれ確保する。ご飯とおかずの入った二個のアルミ食 器を左手の指に挟んで二つを持ちながら右手に箸を持つ 逆巻く波に揺れる体を支えながらの食事である。大きな 波のときは食器からこぼれないように皆が手を同じ方向 に動かすので踊っているように見える。汁物の多い場合 はこぼれないようにするため特に滑稽である。 全長30m弱の本船は冬の北洋では木の葉の如くである 時化のときには波は遥か頭上にあり、次の瞬間、波の谷 間に入いれば滝つぼに立っているようだ。鉄船に乗るの は初めてならば、陸が見えない航海も初めて、恐怖と不 安と驚きの連続であった。船主が心配してくれた通り昨 日からの船酔いはピークとなる。吐くものは全て吐き、 殆んど食事もとれない。お茶かけ飯を一気に流し込んで 海面に向かって吐く、「少しは胃袋に残るから・・」こ んなアドバイスを信じて繰り返す。胃液まで吐いている ようで胃痛が激しい。 話は変わるが本船には食堂がないことは前述しました がもっと困ったのはトイレもないのである。トイレは小 型船では当たり前の箱便所である。船尾の外側に取り付 けられている60cm角位の鉄製の囲いだけの箱の中で キバルのである。胸から上は寒風に晒され、下半身から 下は海面まで筒抜けとなる、天然の水洗便所である。踏 み外したら海面へ一直線の恐怖のトイレ。冬の北洋は 10m位の波も珍しくない、海面から10m以上の高さ所 でキバッタ瞬間、一気に船尾は降下、海水がお尻を洗い そうになる、昔のエレベーターの降下時にお腹に感じる 重力の抜けた瞬間のファーとする不快感の数倍の強烈さ に加え、波による船尾の上下運動で寒風は容赦なく吹き 上げて臀部を緊張させる、排泄物は出るに出られず四面 楚歌(?)、こんな訳で慣れるまで何日便秘が続いたの か良く覚えていません。唯、覚えているのは乗船したこ とを悔やんだことであった。 出港後2〜3日は定時交信(呼び出し)も船酔いもあ り何も出来ず、一括呼び出しをワッチ、海岸局が順番に 呼び出しているようだが何かおかしい、コールサインの 頭のJを抜いてコールしているようだ。本船はJNKB、海 岸局はJを抜いてNKBと呼んでいる、勝手が違うのと予想 以上の速さで受信困難、アルファベット順なので呼ばれ るのは分かっているがどうしてもKeyをたたくタイミン グがとれない、2〜3秒待ってくれるが応答しないので、 次の局に移ってしまう。唯ワッチのみ、それから4〜5 日もすると少し慣れて電文を受信できるようになった、 でも何を言っているのか全く理解できない。 こんなことを繰り返しで約2週間の漁の期間は殆ど電波 を出せないまま終わってしまったのである。二通のプラ イドは愚か自己破滅の一歩手前まで落ちこぼれてしまっ た。通信士とは名ばかり、なんと情けない事この上なし 給与など貰うわけには行かない。 ところで給与といえば、本船の場合は歩合制である。 漁労長は3人分、機関長、ボースンは2人分、通信長は 1.5人、他は全て1人分であり、漁期(タラ漁は冬季の半 年間)の売り上げから経費を引き、半分を船主、残りを 船員で分けることになる。 こんな仕組みだから漁獲量により収入の差があり不安定 なのである。漁期中はお小遣い程度が支給されるが些細 な金額なので、時化のときなど漁の合間を縫って近くの 漁港に寄港し、各自2〜3個のトロ箱に魚を詰めて売っ たり、偶然出会った小形のクジラを捕獲した場合は、そ の売り上げを全員で分配したりして束の間の陸上の香り を楽しむのである。これは漁労長の判断で行い、船主は 知らないことである。 本船は一日2回の通信時間以外はヒマなので合羽を着 て漁の手伝いに借り出される。タラは底生魚で200〜 300mの深海にいるそうだ。漁は底引きトロールといっ て旗を付けた浮きにロープを結び半径300m位の円を描 きながら700m位のロープを流し、そのロープの先には 目の粗い網から細かい網へと繋り最後は魚の溜まる網袋 となっている部分を投網する、そして、ここからは今ま でとは逆の順番で網→ロープへと円を描きながら元の位 置に戻り旗付きの浮きを回収する。そして、回収したロ ープと合わせて2本のロープをウインチで引っ張りなが ら巻き上げる。最初に投網したときの円は徐々絞られて 楕円になり、最後に網袋に溜った魚を船上に引き上げる 訳である。 漁が始まると昼夜は関係なし、一日(24時間)で6回位の 投網、網を引いている2時間位が休憩時間であり、この 間に食事や睡眠時間を交互にとるのである。寒さを凌ぐ ためデッキに温水を流し、合羽を着たままこの温水で暖 を採り仮眠したことも今思えば懐かしい限りである。 さて、無線の話ですが一日2回の定時交信はワッチの み、前述したようにQSOは殆ど出来ないままの2週間振 りに帰港となった。早速停泊中の僚船の通信士を訪ね、 ことの事情を話し指導を受けることにした。 僚船の先輩曰く「引継ぎは?」→「前任者は下船してし まって引継ぎはしていません」「海岸局に挨拶に行きま したか?」→「行っていません」先輩の結論はビギナー では引継ぎもなしには実務は無理であり、通常ビギナー の場合、1航海は引継ぎを兼ねて二人業務するのがベタ ーとのことであった。このことを聞き少しほっとして救 われた気持ちになった。 漁業無線通信は各漁協(組合)で周波数と時間が決め られており、その時間内(2時間程度だったと思う)に 数十局とのQSOをするのである、よって、無駄な交信、 文字、時間は極力省き、前述のようにコールサインのJ を省略し、応答がなければ無視して、次の局をコールす るのである。又僚船といえども漁獲量は漁労長の腕次第 ゆえ、船主への肝要の電文は暗号で行われる。この暗号 文が実に単純に巧く出来ているのである。送信文を作る ときは、タテ、ヨコ各10文字の合計100字の升目の 用紙に10個程の意味の無い文字がクロスワードのよう に予めランダムに挿入してある、これが送受信の共通の 用紙である、送信文はこの用紙の左上から横書きに電文 を記入し予め挿入してある文字のところはそのままジャ ンプして記入し、用紙の空白を全て文字で埋める、そし て、送信時にはこれを右上から縦方向に送信する、傍受 しても意味のない文字の羅列である、受信者は同じ用紙 で右上から縦方向で受信し、解読は左上から横方向に読 むのである。送受信者それぞれが予め挿入されている文 字のところで送受信の間違いがチェックでき、送受信ミ スを防止するのである。このような、ランダムに文字が 挿入された異なる用紙を数種類用意して船舶毎、日付毎 に双方確認の上変更すれば僚船でも解読は無理である。 さて、第二回目の出港、今度こそ通信士としての初仕 事をしなければならない。定時呼び出しの時間が容赦な く近づく、海岸局はいつものペースでJ抜きの一括呼び 出しを行っている。順番が近づく、極度の緊張でエンピ ツを持つ指先に力が入りすぎる、心臓の音が聞こえるく らいの動悸、Keyの右手はコチコチ、でも逃げることは 許されない。遂に「NKB」と呼ばれた、先輩の指導通り コールサインのあとに「シンマイヨロシク」と自分のペ ースでやっと送信することが出来た。すると先程までと は人が変わったようにゆっくりと綺麗な符号が返ってき た。出港前に海岸局に菓子箱持参で挨拶に行ったことが ここで抜群の効果が発揮されたこととなった次第である この「シンマイヨロシク」が私のプロとしての初めての キーイングでした。何ともホロ苦い初仕事でした。 ここで無線室の紹介をします、50トンの小型船では 無線室と言うにはおこがましい、操舵室と背中合わせに 1帖半位のスペースが我がシャックである。その背中合 わせの壁にカウンター風の机が取り付けてあり、そこに 50Wの主送信機、受信機2台、非常用送信機、方探、な どが幅一列に並んでいる、部屋の定員は2人が限度の狭 さである。その机の下に60cm角くらいの引き戸があ り、開けると布団が敷いてあり、ここが私の寝床である 頭を先に入れ、次に膝を抱えるようにして曲げて足を入 れて寝床に潜り込むのである。順番を間違えて足から入 ると頭が邪魔になり中には入れない、狭いスペースを実 に巧く考えている??・・・丁度、棺を少し大きくした 位の広さ、寝返りも背伸びも無理で、上を向いたまま朝 を迎えることになる。机の下のスペースを想像してもら えればその広さは理解いただけるのではないかと思いま す。最後になりましたが、 当時の船舶通信はCWが主流で、SSBなどは一般的には まだ普及していなかった時代、従って、陸上との通信量 は現在とは格段に少なく貴重であった。参考までに付け 加えると無線電報は1字は30円だったように記憶して います。このような時代ですから、通信士の存在は大き く私のようなシンマイのヘボ通信士でも重宝がられまし た。通信士の仕事は情報収集と気象、船舶の安全確保は 勿論のことですが、加えて乗組員の耳であり口となる。 そして、何にもまして乗組員の家族との心の絆を支える ことに少しだけお手伝い出来たことに通信士としての誇 りと喜びを感じた21歳の青春の一ページでした。 de JK3KSC 近況報告 JL3ROS 以前、近所の清水焼の陶工の人達と、京都の北山、比良 鈴鹿などで山歩きを楽しんでいました。しかし年々、体 調不良を訴える人が多くなってきて二十数年続いた会も 自然消滅してしまいます。 その後も年に何回か単独で出かけていたのですが、比良 で何度か出会ううち親しくなった人達と時々一緒に歩く ようになりました。中でも私よりずっと若いU君と知り 合ってからは鳥見の趣味も合いよく一緒に出かけます。 ある時、平から北小松まで比良の縦走路を歩いた話をし ますと「それでは今度、平から蛇谷峰まで皆と一緒に歩 きましょう」と言い出しました。比良山系の南西の端か ら北東の端までです。 調べますと、その距離26km余り、標準歩行時間15 時間30分、普通テント泊などで1泊2日の行程です。 それを1日で歩こう(走ろう?)というのです。 「北小松まで行ったのは昔のことだし、それよりハード なコースだからとても無理」と何度も断ったのですが、 無理と思った時点で下山するということにして結局行く ことになりました。 昨年11月のある日曜日、午前4時30分起床 Yさん 運転の車に乗せてもらい6人で出発します。湖西道路の 真野インターから途中峠を経て花折峠へ、トンネルを抜 けてすぐの林道入り口で車を降りたのはU君と私の二人 だけで、そのまま車は走り去ります。 車中ではウトウトしていて知らなかったのですが、もと もと彼等は最初から乗り気ではなかったようで、二人だ けで蛇谷峰を目指すことになったそうです。 まだ薄暗く寒い中を歩き始めます。だんだん体が温まり だすとペースも上がり、快調に進んで今日最初のピーク 権現山(996m)に到着しました。朝日に輝く琵琶湖 の美しさに目を奪われますが「下りや平坦路では走らな いと明るいうちに朽木に着けませんよ」とせかされ景色 を楽しんだり、写真を撮ったりする余裕はありません。 この後ずっと彼の背中の赤いザックを必死で追い続ける ことになります。 ホッケ山、小女郎峠から蓬莱山まで一気に駆け抜けます ここで水分補給を兼ね小休止、この後リフトの横を打見 山へ、ロープウェーで上がってくる観光客の多い場所で すが、朝早いせいか人影はありません。ここから木戸峠 比良岳 烏谷山 荒川峠 南比良峠とまったく人に会 いません。金糞峠まで来てようやくイン谷口から上って くる登山者のグループに出会いました。 ここから先は登山者も多くなってきます。中峠からコヤ マノ岳を経て比良山系の最高峰武奈岳(1.214m)に正午 過ぎ到着しました。私のほうは常に荒い息づかいで汗だ くですが、先を行く彼はほとんど息も乱さず、いつも涼 しい顔で待っていてくれます。毎回、彼の健脚ぶりには 驚かされます。 ここで昼食を済ませますが、この後、細川越を過ぎると JR湖西線の最寄り駅への下山ルートがなくなります。 少し迷いますが先へ進むことにしました。 北稜を下り、細川越から釣瓶岳への登りでここまでの無 理がたたったのか右膝が痛み始めます。痛みをこらえな がら、イクワタ峠、笹峠、地蔵山と落ち葉の道を小走り に急ぎます。 そしていよいよ最後のピーク蛇谷峰(901,7m)です。 あれを越えると後は下りのみです。少し元気が出てきま した。滝谷の頭から最後の急登を越えようやく蛇谷峰に 到着しました。たまらず山頂の草の上に寝転がると、な にか体が宙に浮くような錯覚にとらわれました。10分 ほど休憩のあと下り始めます。この道、自然観察路でも あるので途中丸太を組んだ階段状になっているのですが これが疲れた体と痛む膝にはこたえました。 日も大きく傾いてきています。体じゅう力が入らなくな った感覚でようやく登山道から砂利の林道に降りバンガ ローの並ぶ中を抜け、薄暗くなり始めた朽木グリーンパ ーク想い出の森の駐車場に到着しました。 すると、突然歓声が上がります。そして見覚えのある白 いワゴン車の影から朝一緒だった4人が拍手で迎えてく れました。彼等はあの後、このグリーンパークまで来て 蛇谷峰の往復登山をサックリ楽しんだ後、公園でグラン ドゴルフを楽しんだり、温泉に入ったりして我々二人を 待っていてくれたんだそうです。 この後、皆で大津市内の居酒屋に寄り楽しい宴のひとと き、縦走の途中、ゴジュウカラを見つけた話をすると彼 は見てなかったそうで大いに悔しがります。今日初めて 勝った!と思いました。こんなことで喜んでいる小さな 私です(笑) そして、まったく酒を飲めないYさん運転の車で京都ま で送ってもらい長かった1日の終わりでした。 de JL3ROS (やっと)桜咲く JG3DLX 0. プロローグ こちら綾部では12月の途中からいきなり寒くなったか と思うと、大晦日の夜には一面雪野原になってしまいま した。KCWA会員の皆さんのお住まいの地域ではいかがだ ったでしょうか。この分だと1月も雪が多いだろうと覚 悟していました。しかし現実には雪より雨の方が多くて 意外でした。わずか一カ月先の事も正確には分からない そう実感しました。正確には分からないからこそいい事 もある、そう思いました。事実、この半年の間久しぶり にそう受け止める事が出来ました。詳細は以下の通りで す。 1. 軽い気持ちで始めました もう6年も前の事ですが、何となくC言語学習を始め ました。途中までは面白いように進みました。入門書の 前半までは良かったのですが、お決まりの「ポインタ」 でつまずいてしまいました。KCWA先輩のアドバイスも頂 きまして、こう言う場合はアセンブリ言語(アセンブラ 言語?)を勉強すれば大丈夫との事でした。そう言う事 で、早速その手の書籍を購入して後は「脇目も振らず」 となりました。読めば読むほどアセンブラ言語は「ポイ ンタ」の考え方その物でした。そしてもう一度よく見る と、その本は「基本情報技術者試験用テキスト」と表示 されていました。ならばいっその事その「基本情報技術 者試験」とやらを受けてみるか?そういう気になりまし た。(その気になったのは4年前ですが。)ここまでは 「楽しかった」です。 2. 夜明け前(副題:低迷期) 後は他に必要なテキスト及び問題集を用意して、注力 する事になりました。その中でも特に「アルゴリズム」 とやらは何の事やらさっぱり問題が解けません。テキス トの問題だけ難しいのかと思って問題集の過去問も当た ってみましたが、手も足も出ませんでした。そして当然 何度受けても「合格証書」が届く事は有りませんでした 「何か変だ、でも何が変だ?」自問自答しても答えは見 つかりませんでした。それではと、何とか勉強法と銘打 った書籍を十冊以上は読み漁りましたが空振りの状態の ままでした。「夜明け前は一番暗い」と言うそうですが 本当にそう実感しました。 3.一筋の光 駄目押しのつもりで「大人のための勉強法」という書 籍を見つけてまた読みふけりました。その中に「年齢を 重ねるほど記憶力が衰えるが、小刻みに復習すれば大丈 夫」そう言う旨の記述を見つけました。また丁度その頃 インターネットの「合格体験記」を検索して次の二つの 事が分かりました。 @問題集中心に勉強する A 分からない所だけテキストで調べる よく考えれば試験勉強の王道でした。何でもっと早く気 が付かなかったのでしょうか。後はその通りに「脇目も 振らず」状態復活でした。具体的には月曜と火曜に勉強 した内容を水曜に復習、そして木曜と金曜に解いた問題 をまた土曜に復習、日曜は予備の日としました。ただし 特にアセンブラ言語はテキスト前半の内容をしっかり押 さえた後で問題集に当たるべきだと思いました。そうで ないと問題の意味すら理解出来ませんので。 4. 決戦前夜 秋になってから体調を崩して「今回は棄権すべきか? 」そう考えもしました。丁度インフルエンザまで流行っ ている事だし。しかし、どうしても諦めきれずに受験だ けする事にしました。何もしないよりはましか?そのぐ らいの気持ちでした。勉強もせずにさっさと寝てしまい ました。 5.(やっと)桜咲く 試験当日は単なる駄目押しのつもりでしたので、特に 勢い込む事もなく無事に済めばいい、そう言う気分でし た。手応えは以前よりは良くなったか?その程度でした それから一カ月程は試験の事は考えないようにしていま した。それでも点数だけでも調べようとインターネット で結果確認すると「合格」の二文字が表示されていまし た。「え!?何で?私常連さんですけど」本当にそう叫ん でいました。これは何かの間違いに違いない。そう思っ てプリントアウトして毎日にらめっこしていました。そ の数日後に合格証書が届きました。そこでやっと「合格 」を実感出来ました。永らく「合格通知」から遠ざかっ ていましたので、実感というよりも信用するまで時間が かかり過ぎてしまいました。やれやれ。 6.そうとは知らず 受験期間中は何とも思いませんでしたが、私の周りの 受験者の大半は20代もしくは30代までが目立ちました。 時々私とよく似た年代の方も見かけましたが、「試験管 さん」でした。私の年代はそう言う事のようでした。最 初から分かっていれば受けなかったかも?私が受験を決 意したのは合格者の平均年齢の二倍になってからでした 何と言う怖いもの知らず。いえ、知っていれば本当に受 けていたかどうかよく分かりません。 7.封印を解きました 元々はC言語学習から始まった受験勉強でしたが、や っと封印を解きました。大袈裟ですが、「封印を解きま した」、そう言う気分です。シャックの書棚の片隅で埃 を被っていたC言語の入門書やリファレンス本を取り出 してみました。中には紙が変色している物も有りました 何度か改訂版の出た本もありました。何年も前に勉強し た内容も殆んど忘れた後でした。もっと早く「合格証書 」を受け取っていればこんな事もなかったのでしょうが 私は浦島太郎? 8.原点回帰 私が浦島太郎になっているうちにC言語の統合開発環 境が複数発表されていました。そこで、その中のいくつ かを調べてみました。そしてそのいずれもが、実際にソ ースコードを入力するまでのプロセスの長い事、長い事 「これならテキストエディタ+コマンドプロンプトの方 が速い」そういう結論に達しました。いつの間にか、私 はせっかちになっていたのでしょうか?本来、のんびり 屋さんのはずなのですが。ディスプレイの右側にコマン ドプロンプト、左側にテキストエディタというスタイル がお気に入りになっています。 9.やっぱり「せっかち」でした いつの間にかパソコンの再起動時間も待ち遠しくなっ てきました。「一分間をムダにしない技術」と言う本に よると、「パソコンの起動時及びシャットダウンの時だ け本に目を通すと一カ月もすると一冊ぐらいは読めるか もしれない」と言う事でした。それならと、再起動時に 読んでみました。すると、その時だけでも10ページ以上 は読めました。本にもよりますが、続けると結構一冊ぐ らいは何とかなりそうな気がします。まさかこの私がこ んなにせっかちになるとは、驚きました。 10.鬼に笑われました 「せっかち」になったり鬼に笑われたりして結構忙し いですが、どうも本当に笑われたようです。それと言う のも、何年か先にパソコンを買い替えると手持ちの「C 言語のコンパイラ」を使えるかどうかわからないので、 どうしようかと考えていました。そして購読中のプログ ラミング雑誌の別冊付録によると、一番新しい「 windows7」においても手持ちの「C言語のコンパイラ」 が使える事が分かりました。ちゃんとセットアップ法か ら設定変更の方法まで記述されていました。これで最低 でも後何年かは同じコンパイラを使い続ける事が出来そ うです。こう言う笑われ方なら嬉しいばかりです。 11.危機一髪 「今度は一体何?」そう言われそうですが、本当に危 機一髪でした。先日使い終わったばかりの「スキャナ」 を踏んでしまいました。私のパソコン机はあまり広くな いので、「スキャナ」は使う時のみ床(正確には畳です が)に広げています。そして、体のバランスを崩した時 によろけて踏んでしまいました。「ミシッ」と言う嫌な 音がしました。もはやこれまでか?そう思いましたが、 大丈夫でした。何と言う失態。でもこれでホッとしまし た。 12.「せっかち」が加速しました 昨年また「セキュリティソフト」が新しいものにアッ プグレードされました。以前はウイルススキャンに30分 以上はかかっていましたが、今度はわずか2分半程で完 了出来るようになりました。何と言う速さでしょうか。 どうせなら、「マイリカバリソフト」もこんなに速けれ ば有りがたいのですが、もしかするともっと新しいパソ コンはそうなっているのでしょうか?非常に気になる処 です。次に買うパソコンに期待したいと思います。 13.果報は寝て待て(副題:寝過ぎ) もう30年以上も前の事です。その頃Z80マイコンボー ド(キット?)が発売になりました。何でもその当時ま だ珍しかった個人用コンピュータでプログラミングが出 来るとかで、友人達の間でも話題になりました。しかし まだ高校生だった私には価格的に折り合わない代物でし た。その為、その事は無理に記憶の外に追い出したつも りでした。 それが今頃になってから、記憶を呼び覚まされる事に なりました。まだ寒かった頃の新聞広告にて次の書籍を 見つけました。 「CD-ROM付 動かしながら理解するCPUの仕組み」 加 藤ただし 著 講談社ブルーバックス「何で今頃?」そ の時はただ単純にそう思いました。そう思ったのですが また昔の虫が騒ぎ始めました。何と言ってもあの当時 10万円ぐらいしていた物が、いくらCD-ROM付書籍になっ たとしても、わずか千円+アルファで買えるのですから。 新聞広告が目に留まって数秒後には購入を決めていまし た。 14.果報は寝て待て、その2 購入後早速読み始めました。アセンブリ言語でCPUを 動かす事になっていました。アセンブリ言語なら情報処 理技術者試験対策として勉強済み、そう考えて読み進み ました。最初は鷹をくくっていたのですが、その命令語 の多さに驚きました。情報処理技術者試験用アセンブリ 言語の「CASLU」はわずか36種類しか有りませんでした しかし、Z80用アセンブリ言語は何と全部で696種も有る そうです。またZ80その物も情報処理技術者試験用の架 空のCPU「COMETU」と比べると、聞いた事もないような レジスタもあちこち出て来る始末です。「何だ、こりゃ ?」そう言う気分で読み続けています。まだ半分ほど読 んだ処ですが、取りあえず読み続けてみるつもりです。 以上今回はCWとは直接関係のない話題ばかりになってし まいました。CW関連の内容も用意していたのですが、ま た今度と言う事になってしまいました。今年は年初めか ら寒いのか暖かいのかよく分かりませんが、KCWA会員の 皆さんお元気でお過ごしください。 de JG3DLX '日本よ卑屈になるな! JE3LKZ 此の頃日本の状態を見ていると、私のような昭和二桁は 非常にはがゆく思われます。無論アジアの中の一国とし て協調しなければいけませんが、しかし余りにもアチコ チに必要以上気を使っている様に感じられます。北朝鮮 のラチ問題でも家族の方々の気持ちを考えれば彼らのそ の余りにも誠意の無い態度には憤りを感じます。然もア メリカでさえ何となくおとなしく相手の言う事も聞いて いる現在では止むをえないかもしれません。日本は例の 竹島問題でも韓国に遠慮している様に思われます。竹島 は日本の領土として認められているのです。政治屋?の 方々は党の事ばかり考えずそちらに気を向けられたらど うかと思います。又対馬の事に関しても韓国が強引に出 て来るので現地の方は大変困っておられる様です。日本 には海上自衛隊があるのですから日本の領海内では漁業 関係者の保護をしてあげなければいけません。 和を以って貴しとなす 現在、日本どころか世界的に見ても、この聖徳太子の言 われた様な状態になっていない事を痛感します。日本の 政治も政治家でなく政治屋が勝手な事ばかり言って国会 の信用を傷付けている様に感じられます。又、世界の情 勢にしても、もっと仲良く少し相手の立場を考えてやれ ば解決する様な問題が多々ある様に思われます。現在、 日本を始め他の国々も宇宙開発に協力している時代です これを押し広げて人類全体が協力し合って、地球に一番 キョリも地質も近いお月さまをもっと研究しなければい けないと思います。地球の方からは全然見えない裏側も 最近人工衛星のお陰で少し解って来ていますので、その 研究をしたら良いと思います。太子のお言葉を出し乍ら 大分はなれた事をお許し下さい。イスラエルの方々も大 きな土塀を作って主義の違う人を入れまいという事は、 余り良い事とは言えません。然も宗教がからんで来ます から仕方ありませんが・・・・。 北方四島の問題 北海道の鈴木議員が一人で心配しておられる様に感じま す。日本の北端ですがハトヤマさんが言っておられる様 に日本固有の領土なんですから強い態度を崩さなくても よいと思います。 又この問題に対してはハトヤマさんが強い態度でおられ るのが心強いです。ロシヤの方々が定着しておられます のでそのかたがたの永住権を認め、そして日本の領土で ある事はあくまで主張しないとなし崩しにロシヤに持っ て行かれる様に思います。寒い処で一生懸命カニを獲っ たりコンブを獲ったりして生活している方々に対しても 気の毒ですし、又、大きな栄養源として国民の皆様も期 待しておられると思います。最後になりましたがムセン の方ですが暖かくなって来ましたのでとに角受信専用の アンテナを作る心算です。屋内配線用のヨリ線でロング アンテナを作ろうと思います。現在2mの方は殆んど出て おりません。水曜の大正会のロールコールも殆んど出て おりませんので、その前日のCW愛好会の方だけに出る訳 にはゆかず御無沙汰の状態です。 de JE3LKZ ホンダ車の改造 JA3DLM 先日、長年に亘って運転していたカローラ、0599のナン バーで気に入っていた。しかし平成6年型にて古く、税 金も割高、それにたくさんの疵が付いていて車検前に乗 り換えようと思いながら国道を走っているとホンダの店 にピンクゴールドのライフが目に入り、早速に店に入る と初売りセールとかで満員状態でしたがやさしいセール スが応対してくれて即決。お気に入りはバックモニター が付いていてAV端子にワンセグチューナをつなげばテ レビが見られると言うことで決めました。 運転中は安全のため走行中のモニターは写らないように してありサイドブレーキを緩めると映像は消えるように してある。足元のブレーキ検出SWでの規制解除では走 行中にブレーキ中の警報やパネルのブレーキランプが点 灯してNG。WEBで「走行中でのテレビ」を検索すると 助手席の為にと断りながら改造記事がちらほら出ていま した。しかし私と同型車の改造記事は無く販売店にダッ シュボード裏の配線図を無理を言ってコピーしてもらい WEB記事を参考に自分で工事をしようと決めまた。デー ラーに方法は教えてもらえずに自分で探索することにな り車の中でダッシュボードとオーディオモニターパネル を外しての作業を数時間した。 配線を焼かないように1Aヒューズを入れたテスト線に縫 い針をつないでハーモニカ端子のそれらしき所の電圧を 測ったり、アースに落としたりして確認しているとサイ ドブレーキが緩んでいても映像が出る線が見つかり勇気 を出して新車のその線を切断、アースへと配線して気持 ちよくダッシュボードを元通りした。 自慢顔で工具類をしまってドライブに出たがショック。 20kmの車速になると又、映像が出なくなり車が停止する と写ると面白くない現象で車速センサーがあるようだと 分かりました。帰宅して配線図をよく見ると車速センサ ーの配線がモニターパネルに入っているのを見つけた。 翌日そのセンサーの配線を探してアースに落としてテス ト走行をすると20km超えてもOK、警報も無くテレビが写 り続けてガッツポーズが出ました。 違法ぎりぎりの改造工事は完成。オリンピック中でも気 持ちよくドライブが出来て助手席も喜んでいます。 de JA3DLM 第24回初級QSO教室 日時 2010年2月21日(日) 9:30〜17:00 場所 キャンパスプラザ京都
キー局担当月一覧:H22年 1月JL3ROS 2月JE3OWL 3月 JA3LGF 4月 JK3KSC 5月 JJ3CPE 6月 JA3PUA 7月 JA3DLM 8月 JI3CZD 9月JG3DER 10月 JA3MRF 11月JG3DXH 12月 未定 網掛け水色はKEY局 5.編集後記 1.事務局よりお知らせ @今回から編集担当させて頂くことになりました JA3DLMです。宜しくお願いします。 表紙は昔に使われていたKCWAのロゴを使用いたしました アドレス、電話番号の間違い、変更、不掲載希望がある時は 事務局まで。尚、送って頂いた原稿は明らかに誤字、脱字 と思われる部分のみ編集者の判断で編集している部分が あります。ご了承下さい。もしそのまま掲載希望の方は、 その旨連絡下さい。期待に応えます。 AKCWAホームページに各種行事の案内、報告を掲示していま す。ご覧になった感想、意見、……等がありましたら、掲示 板に書き込み下さい。事務局が定期的に閲覧しています。 事務局への連絡用としても御利用下さい。 2.KCWAの主な活動 機関誌を3,9月の年2回発行/JARL京都支部共催行事の KCWA CWコンテストの主催/JARL京都支部共催行事の初級CW QSO教室、上級ハム国試対策講習会の実施。不定期に野外移 動、アイボールミーティングの実施。 第27回KCWA CW コンテスト2010.12.5(日)/10:00〜20:00/ 3.5MHz & 7MHz マルチ 第2011年の初級CW QSO教室:詳細未定 第2011年上級ハム国試対策講習会:詳細未定 3.投稿案内 PCで原稿を作成された方はEメールにて 事務局 owl.3@hera.eonet.ne.jp まで送信して下さい。 書式不問。Eメールで送れない方は郵送で事務局の稲垣まで 送付して下さい。 4.クラブへの入会案内 入会金 1000円、年会費2400円。郵便振込みされる方は定 額小為替にて事務局へ/銀行振込は京都銀行 城陽支店 普通608880 5.ロールコール案内 曜日 毎週火曜日/時間 21:00〜22:30頃終了/局数により 早期終了、時間延長有り/周波数144.09MHz付近/和文/欧 文、スピードはチェックイン局に合わせます。極端に早いのは御遠 慮下さい/キー局は毎月変わりますのでレポート交換に御利用 下さい/会員の有無は不問。 6.発行記録 京都CW愛好会機関誌 電信 第48巻 通巻無断転載禁 版 権はKCWAに帰属する 初版は昭和61(1986)年6月1日発行 毎年2回3/9月吉日発行 バックナンバーはKCWAホームページ掲載中 URL https://kcwa.sakura.ne.jp/ 編集 JA3DLM ja3dlm@jarl.com 京都CW愛好会事務局 JE3OWL owl.3@hera.eonet.ne.jp バックナンバー 31号の機関紙 32号の機関紙 33号の機関紙 34号の機関紙 35号の機関紙 36号の機関紙 37号の機関紙 38号の機関紙 39号の機関紙 40号の機関紙 41号の機関紙 42号の機関紙 43号の機関紙 44号の機関紙 45号の機関紙 46号の機関紙 47号の機関紙 |